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患者さん中心の医療のためのもう1つの概念
Narrative Based Medicineとは?
京都看護大学特任教授/なかがわ中之島クリニック院長 中川 晶 先生
適切な治療を提供し、治療効果が現れているはずなのに、なぜか患者さんの満足度は低い。医学的に正しいことを伝えているのに患者さんの表情はさえず、あまり納得していないようで、治療がうまくいっている手応えを感じない−そんなモヤモヤを抱えている医師は少なくないようです。医療のあり方が患者さん中心、患者さんに寄り添い意思決定を支援するという方向に進む中、Narrative Based Medicine(NBM)に注目が寄せられています。NBMおよびナラティブ・アプローチ研究の第一人者である京都看護大学特任教授/なかがわ中之島クリニック院長の中川晶先生にお話を伺いました。
患者さんの病気観に基づく医療が治療効果を高める
Narrativeとは物語・物語ることを意味します。Narrativeは客観的な物事ではなく患者さん自身の体験などに基づく物語であり、NBMとはNarrativeに基づく医療を指します。そのアプローチは、患者さん自身がどのような体験として自分の疾患を捉えているか(病気観)に焦点を当て、語りを促す質問を投げかけつつ傾聴し、病気観を前向きなものに再構築するーという手法です。病気には患者さんの人生の中にある物語の1つという側面があります。「病者」としてのエピソードを語っていく過程で自身の病気観と向き合い「聞き手(医師)」と共有する、そのような一種の行動変容が生じて病気が軽快する可能性があります。慢性疾患の治療には患者さん自身による行動変容が必須であり、より良い治療効果をもたらすことはご存知の通りです。
私がNBMに関心を寄せたきっかけをお話しします。私は大学を卒業し社会人経験を経た後で医学部に入学して医師になりました。医療を「受ける側」として接する期間が長かったためか、医療者と患者の間にはすれ違いがあるように感じていました。両者の視点がなんだか交わっていない、患者の言いたいことを医師側がきちんと聞けていないような違和感を覚えていたのです。
1990年代に北米で提唱されたEvidence Based Medicine(EBM)の概念は、以降、瞬く間に世界的に確立されましたが、それ以前から根拠に基づく医療の実践が医学のメインストリームでした。疾患を有する患者を類型化し、客観的な手法で治療効果の有無を検証したevidenceに基づく医療実践において、患者さんが抱えている思いに目が向けられにくくなりました。そうした中、医療者が患者さんの思いを把握できていないが故に、本来であればうまくいくはずの医療が奏効していないケースが少なくないと感じていました。
私はNBMという言葉をEBMが隆盛する1990年代ごろから、幾分冗談めいたニュアンスで口にしていました。しかし、私はEBMだけではくみきれない、患者さんが抱えている病気観に焦点を当て医療を組み立てることで治療効果が向上するのではないかと仮説を立て、病気観に基づき治療することをNBMと称していたのです。2000年にNBMが英・ロンドンで実践されていることを知り、同時期に同じことを考えている人がいることに驚きました。そして、NBMが医療現場でどのように行われているのかを知るため英・Kings College Londonに留学し、学びと実践を深めていきました。当時、英国ではプライマリケア医、内科医を中心とする臨床医らがNBMの概念に則した実践に取り組んでおり、現在でもあらゆる疾患を抱える患者さんに対する治療アプローチとして有用であると捉えられています。
EBM+NBMで患者中心の医療が可能に
21世紀に入り、患者中心の医療が提唱されるようになりました。最終的に治療方法を決めるのは患者さん自身であるという考えに基づき、医療者側が十分な説明・教育を実施した上で、患者さんの人間性を尊重して医療を提供するというものです。おそらく誰もが重要だ、目指すべき医療の姿だと思うのではないでしょうか。
十分な説明・教育という面でEBMはとても重要です。しかし、EBMのみに偏りすぎると患者さんの満足度を低下させてしまうということはないでしょうか?仮に有効率が30%の治療法について説明し、患者さんに治療を受けるか否かを判断してもらう場面を想定してみましょう。患者さんの関心事は自分が30%に入るか否かです。ところが、EBMではそのような希望に応える術はありませんから、それ以上の議論ができないのです。そのようなコミュニケーションは、客観的な数値と確率を提示されても判断がつかない患者さんにとって、不安をくみ取ってもらえていない・寄り添ってもらえていない、極言すれば、自分の人間性が尊重されていないと懐疑的な心理状態を生み出してしまう可能性があります。
患者さんの人間性を尊重する点に着眼し、主観的な病気観に立脚する、換言すれば患者さんに寄り添う医療を提供するには、EBMに加えてNBM、つまり医学的論理性を担保するEBMをきちんと押さえながら、NBMの手法も取り入れた医療の形が求められているのではないかと考えています。
時には医学的論理性から離れ、「探検家」になってみよう
一般的に、医療における問診は質問で構成されます。問診では医師がイニシアチブを取って自らの関心事に従い患者さんに質問を投げかけるため、患者さんが話したいこと、尋ねたいこと、伝えたいことを話す機会を奪ってしまうという不均衡が起こりがちです。私が最も影響を受けた英・ロンドンの家庭医John Launer氏は、変化をもたらすような会話に焦点を当てるべきで、そのためには患者のNarrativeを読むことが大切だと指摘します。
医師がなぜ患者さんに質問をするのか、もちろん診断を目的とした情報収集です。医療現場では、医学的論理性を基盤に患者さんに客観的事実を問う質問(「刑事」の質問)と、戦略的に患者さんを医学的に正しい行動へと誘導する質問(「教師」の質問)がよく用いられます。医学的な正しさは論理的一貫性が前提となるため、医師の思考は得てして論理性に縛られます。しかし、常に医学的正しさに拘泥してしまうと患者さんの主観的な病気観を捉えにくくなります。
そこで、時には医学的論理性から離れ、患者さんの病気観をNarrativeとして理解しようという心構えが必要です。その姿勢は「探検家」のようなもので、原因と結果のように明確な直線的因果律ではなく因果が曖昧な円環的因果律の混沌に踏み込み、語りを促すような質問を投げかけることで、患者さんの病気観そのものに迫っていきます。そういったやり取りを糸口に、患者さんの病気観と医学的論理性が折り合う着地点を探し、「ファシリテーター」となって患者さんが自身の物語を再構築する手助けをする。そのようなNarrative Questioningの手法が功を奏することも知っておいていただければと思います(図)。
まずは傾聴、患者さんのペースに応じて「続きは次回」
患者さんの語りを傾聴するなんて、多忙な診療場面では難しいと思う方も多いでしょう。医師が中断させず患者さんに自由に語らせた場合、どのくらい話し続けるかを調査した研究では、平均92秒、約8割が2分以内であったと報告されています(Langewitz W, et al. BMJ 2002; 325: 682-683)。医師が話題のまとめに入ったり軌道修正を図ったりするなど介入のタイミングが早過ぎると、かえって患者さんの「話さなければ」という感情を刺激し長引かせてしまうことすらあります。まずは患者さんの語りを興味津々に傾聴する。患者さんが語り、医師が傾聴する共同作業はそのような姿勢が大切です。また、物語であるが故に「続きは次回」とするのも可能です。患者さんのペースに応じればよく、一度に全てを語ってもらわなくてもよいのです。
正しさから距離を置き、なんでも話してよいと伝えよう
月経困難症の患者さんが痛みを抱えていることは、釈迦に説法、婦人科の先生方は当然、理解されていると思います。とはいえ、痛みは主観的な経験であるため、患者さん自身が痛みをどのように認識しているかまでは、なかなか捉えられないものです。患者さんにとって受診は日常とは異なる場面であり、日常のままの自身の姿を医師に見せる方はあまりいません。診察室に入る直前に化粧を直しに行かれて、「よそ行きの顔」で来られる方も少なくありません。医療者側に受け入れられたいといった意識も働いているようです。その一方で、果たして患者さんの悩みに寄り添いきれているのだろうかと悩まれている先生もいらっしゃることでしょう。
患者さんが無意識に抱えている自分の主観を表出しにくいという思いに対する配慮として、診察の際、まず医師側が患者さんと同様の生活者の視点での声がけ、例えば、「急に雨が降りましたが大丈夫でしたか? 傘は持っていましたか?」など、普段の姿を見せて差し支えない空気を醸成することが大切です。そして医師側から前もって、診察室の場では倫理や道義に反することも含め話してはいけないことなどなく、なんでも主観的に話してよいのですよと、患者さんが安心して「正しさ」から距離を置けるよう「許可」を伝えることも大事だと思います。
私は、症状増悪の原因が医学的論理性とはおよそかけ離れたところにあり、その物語が患者―医師間で共有されたことで治療効果が得られた経験があります。治療において、医師はあくまでも助言者であり、患者さんとともに方針を決めて進めていく役割に徹することが大切です。患者さんの意思決定支援としての医療者の役割が重視されつつある今、あらゆる医療現場においてナラティブ・アプローチが役立つのではないかと思っています。患者さんのNarrativeを聞くこと、患者さんへの質問の仕方を工夫することで可能になると思います。